ニニBEFORE
希望の国の王子
地球っていうところに興味がなかったかと言えば嘘になる。
興味は......あった。手を伸ばせば届きそうな、そんな綺麗な青い球だったから。でも郷愁はなかった。そこで生まれたわけでもないのであたり前だ。
僕の故郷はここ、"きぼう"だけだった。
規定時間が来て活動時間に入る。
伝統的に、これを朝という。地球に居た頃の伝統という。実際の朝というものがどんなものか、僕は知らない。明るくなったら朝、くらいでいいとは思うんだけど。
上とか下とか分からないけれど、自分の頭を上とするなら、上の方の窓に地球が見える。日に日に大きくなってきた。最接近ももうすぐ、とのこと。
あと何日だったか、頭の中で軌道計算しながら、"きぼう"の中を、宙を飛ぶ。予定より数秒遅れている。これもよく分からない地球の伝統、おはようという声に対応しながら、すぐに筋トレに入った。二時間たっぷりの運動のあと、メディカルチェックに投薬を受ける。僕は宇宙生まれでは最長老というか、僕が最初に産まれた子供なので、チェックは念入りだ。僕に続く子供達にデータを残すのも、僕の役目だ。
「地球が気になるか、ニニ」
船医長がそんなことを言った。
正式にはステーション、駅なのに船医ってなんだろうと思うけれども、それを言い出すと切りがない。そもそも船医長は本業は学者だというし。面倒臭くて複雑だ。宇宙にいる、と言っても地球の影響をまだ色濃く受けている、ということだろう。
僕は船医長の顔を見た。長いこと生きた、皺だらけの顔。僕はこの顔が好きだった。長く生きているというのは、それだけで偉い、と思う。
「気になるのかな」
正直に言ったら、笑われた。実際のところ、地球が気になるかと言われたら、そこはちょっと、分からない。うまく言語化できない。
地球が綺麗なのは否定のしようがない事実として、とはいえ、それだけのような気もする。たとえば地球の組成とか歴史に、僕は興味がない。
当然、そこに住もうとも思わなかった。住めるとも思えない。
話に聞く地球はとても広くて、酸素配分も行動計画がなくても生きていける。そんなところに放り出されたら、きっと途方に暮れるに違いない。
これらを船医長に言ったら、船医長はメモをとりながらそうだなあと言い出した。彼は僕の心の動きも、今後のためと言って記録している。
「ニニは、怖いのかもしれないね」
「地球を怖いと、僕は思っている......?」
そう言われても、しっくりこない。船医長は笑っている。
「だから避けている、とも言える」
「恐怖に対して知ろうとする行為も一般にあるんでしょ」
「ああ。そうだとも。怖い物見たさと日本では言う」
「日本。地球は見えない線で分割されているというあれ?」
「そうだ。分割されているものの一つが日本。私やお前の母の生まれ故郷でもある」
船医長は遠くを見るような目つきで地球を見た。もう三十年も帰ってないという。
「地球も悪いところではないよ。ケガイがいなければね」
そうしてそんなことを言った。
ケガイから逃げ出して、いや、逃げ出すためにこの国際宇宙ステーション"きぼう"は作られた。
"きぼう"に乗せられたのは選ばれた人々。それで僕は、その人たちの子供ということになる。船医長によれば僕は希望の国の王子らしい。あるいは天の国の王子とも。
僕からすると国とか王子っていう概念が地球のものなので、正直よく分からない。
違うな。分かりたくないのかな。そう、思えば地球、地球と年上の船員達が言うのが、ものすごく嫌いなのかも。
「船医長、僕は地球が怖いんじゃなくて嫌いなのかもしれない」
「ははは。昨日も今日も綺麗だと言っていたぞ? どういうことだい?」
「それは......そう。でもね。僕は船医長やみんなが地球のことを言うのが嫌いなんだ」
「何故だい?」
船医長は答えに先に行き着いた顔で僕にそう言った。僕の心の話なのに、僕より早く分かるというのは凄いことだ。僕もそんな風になんでも見通せるようになりたい。
ともあれ、答えを出さないといけない。
僕は腕を組んで宙をくるくる回った。考えるときには回転するに限る。頭の回転という日本語から思いついた僕独自のルーチンだ。
「そうだね。あ、そうだ。僕は"希望"が悪く言われているようでイヤなんだ。地球のほうがよかったって、そう聞こえるから」
「それ以外はどうだい? 人の心は、単純ではない。一つのことだけで動くことは滅多にない」
「それ以外......そうか。僕は寂しいのかも」
「そうか」
船医長は僕を抱き留めた。頭を撫でてくる。
「一つ重大なことを話そう。ニニは"きぼう"で生まれたが、地球の日本人でもあるんだよ?」
「半分でしょ。残りは米国だよね」
「いや、日本だけだ。米国は生まれた土地で国籍を決める。日本は帰化を除くと血筋で国籍を決める。ニニには日本の血が入っているから日本人だ。少なくとも日本はそう主張する」
「輸血したらどうなるの?」
僕が尋ねたら、船医長はくるくる回るほど大笑いした。その発想はなかったらしい。
そのうち僕もおかしくなって、二人して回りながら笑った。